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ゴム動力プラ子の日記 〜第201回〜 2011年 6月14日(火)

唐突に再開。

 

※6月20日、プラモ星人さんからの本文を差し替えました。変更した文章をいただいていたのに
  変更前の文章を載せてました。ごめんなさい。というわけで、もう一度、読んで下さいね。




人生これから! プラモ星人1号さんからの便り

 

嬉しい知らせが入り、あまりにも盛り上がってしまい黙っていられない!で、実に2年ぶりとなる日記を、書いてしまうのです。

2004年、まだ、この日記の5話目に登場して頂いたプラモ星人1号さんが、1号さんが〜〜〜!

というわけで、・・・・・続きは、本文でどうぞ。   ドテッ 

 

思い起こせば、7年になるのです。私がこの仕事を始める直前に静岡ホビーショーで出会い、以来友人として

グループ交際(なんじゃ?死語か?)してきた仲良しさんです。模型仲間として、この日記を初期のころから

読んで下さった皆様もきっと、喜んでくれると思う、自慢したくなると思う、そんなお話。

あ、というわけで、皆様ご無沙汰です。挨拶もそこそこに、ということになりますが、ごめんなさい。

 

では、プラモ星人1号、Masa Naritaさんの「その後」です。さて、彼はどうなったでしょう?

 

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「何をするにも遅すぎることはない」

小学校の頃の楽しみはプラモデルとテレビ。日曜7時30分からの宇宙戦艦ヤマト、
続 いて8時からの日本沈没は毎週一回の大のお楽しみだった。家族4人、父と
母と妹とこ たつや食卓を囲んでテレビに見入っていた。そして9時からは日曜洋画
劇場と続く。 淀川長治の「さよなら、さよなら」に続きあの悲しい曲が流れてくると
「あ〜終わっ てしまった」と深刻に寂しい気分になった。単に日曜日が終わって
しまうというだけ でなく、子供心に、いつかこの幸せが終わってしまう。いつか死んで
しまうと、そん な気分にさえなったのである。


私は映画好きだ。でも映画おたくに言わせるともぐりかもしれない。好きな映画は昔
のものばかり、それもタイトルと主演男優、女優は言えても監督の名前や裏話などは
まったく知らないからだ。いわゆる通ではなく、語りもできない。ただあの映画には
何度も感動するというだけだ。


映画を好きになったのは、母と父が毎晩のように月曜、水曜、木曜、金曜、日曜と
映画劇場を欠かさず見ていて、自分も10才の頃から一緒に夜更かししていたからだ。
初 めて見た「シャレード」は今でも最もお気に入りの映画なのだが、それを見てから
洋 画の虜になったと思う。いつか俳優になって映画に出てみたいとという漠然とした
思 いを持ったのだ。


しかしそれは夢の話、ハリウッドははるか遠い異次元の世界なのである。親の言う
な りに勉強して親の薦める大学に行って、これといった目標もなく就職した。
NECを3年で退職して日興証券に入社した。5年目にシリコンバレーに研究センターを
作るという話があり手を挙げた。仕事は最先端コンピュータ技術の調査であった。

5 年も過ぎた頃、やっとまわりに目がいく余裕ができた。1997年4月29日。とある展示
会でライトウエーブというコンピューターグラフィックスアニメーションを作るソフ トウエア
と出会い、「これなら自分でもできそうだ。」「凄いアニメーションを作れ ば映画会社の
目にとまるかもしれない。」と素直に考えたのだ。


5年も住んでいるとアメリカの真の良さが実体験を通して見えてくる。人の成功などを
目の当たりにしているからだ。何歳になっても努力を怠らなければ、この国ではそれを
素直に受け止めてくれると肌で感じていたのである。自分のまわりを映画を作っている
人たちが普通に歩いている。それは決して異次元でもなんでもない普通の世界であった。

3年間、余暇をすべてつぎ込んで勉強し3本のショートフィルムを作った。CG制作会社
50社程度にデモリールを送ったところ、現在のドリームワークス、当時のPDIの目に
とまり面接を受けた。スタートレックを作っていた会社からは実際にオファーも貰っ たが、
ビザの関係、父親の急な他界、娘の誕生、出世などが重なり、第一回目のチャ ンスは
3年間の努力と共に泡と消えた。

それから10年、日興の駐在員としてアメ リカで過ごした。第2回目のチャンスは突然
やってきた。例のリーマンショックなど で会社がシティーグループに買収され、海外
オペレーションの縮小、日本への帰国の 可能性が高まったのである。

すでにアメリカに14年、2人の子供はこちらで生まれ今 更日本には帰れない。
「人生一回。これは最後のチャンスかもしれない。」と自分に 言い聞かせ、会社を辞めて
ロスに引越し、ハリウッドのCG専門学校に通った。時に45 歳の夏2007年7月の出来事
であった。


1年半の猛勉強が始まった。今度は後がないから必死であった。しかし「駄目ならゼロから
や り直せばいい。」という割と気楽な考えでもあった。この国ならなんとかなると感じていた
のである。


2009年4月、週300ドルの仕事であったが初めてのCGの仕事を手にした。その後、
デジ タルドメインでコマーシャルを2本、日本でもお馴染みのアウディのルービック
キューブの奴だ。会社へ向かう初日、車の中で涙が流れた。「遂にあのデジタルドメ イン
に入れるんだ」と。デジタルドメインは12年前からの憧れの会社だったからだ。 この間、
感動する映画のエンドロールを見るたびに自分の不甲斐なさを感じてきたの である。
特に日本人の名前を見つけたときはなおさらであった。


そして「エルム街の悪夢」のフレディーをモデリングしないかという話が舞い込む。
現在籍を置くメソッドスタジオからであった。2010年4月29日。自分の名前が初めて
銀幕に映し出された時の感動は子供が生まれた時に次ぐものだった。映画の帰り道の
車の中で2度目の涙を流した。

その後、「パーシージャクソン」、「魔法使いの弟子」、「モー ルス」などに続き、つい先日、
「パイレーツオブカリビアン」第4作に名前を刻むことが出 来たのである。初めてパイレーツ
の仕事をした日の帰り道、車の中で3度目の涙を流 した。ハリウッド超大作への関与は
ひとつの目標だったからだ。


自分の人生は今始まったばかりである。毎日が楽しくわくわくし、生きているという
確かな実感が持てる。自分の作ったモデルがCMで放映されたり、映画に名前が
出た り、ハリウッドのレッドカーペットで賞を貰ったり、雑誌や新聞に紹介されたりと、
毎月のようにいろんなイベントがある。しかしまだまだこれらからだ。

次の夢はあの ILMに籍を置くことである。それまでは毎日120%の努力を続けなければ
ならない。 そんな自分を支えているのはもちろん家族であるが、小さい頃から感じていた
人生の 短さと映画へのあこがれがその原動力になっているのであると思う。

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びっくりした?びっくりするでしょう? 

私ね、現在公開中の「パイレーツ オブ カリビアン」は、夜中(このところ仕事が忙しかったからね)

の上映で観たんです。で、目をさらにして、最後のエンドロールから名前を探し出そうとしました。

でも、ときどき、どばっと名前だけの固まりが迫ってくるので、「あ〜、これじゃ見つけられない!」って

悲鳴を上げそうだったんです。でも、最後の方の、右側に、ちゃんと役職付きで、名前がしっかり

載っているのを発見!思わず「あった!」と声を出してしまいました。

それで、日を改めてまた2回目もみちゃった。

 

LEAD MODELER : MASA  NARITA

 

あぁ、嬉しい。嬉しすぎる。

アメリカで勉強中のハードな様子を聞いていただけに、嬉しさひとしお。

というわけで、お祝儀代わりに、詰め合わせてプレゼントを送りました。

その中には、田宮会長だけでなく、普段めったにサインをなさらない田宮社長が成田さん宛に

サインをして下さった書籍「静岡模型大全」もあれば、海洋堂センム様から成田さんへ、とお預

かりした「「ジャック・スパロウ」、そのほかタミヤTシャツ、タミヤネクタイ、タミヤパン、隙間には

「ベビースターラーメン」

など、など、がんばっちゃた〜!   

 

しかしね、本文を読み返して、やっぱり彼はアメリカになじんだなぁ〜、って思う。

努力して、技を身につけたら、自分をしっかりアピールして、職を得る。・・・これ、ほとんどの日本人が苦手とする

ことではないかと思うんですよね。 それが出来るようになるまでの苦労はいかばかりか。

 

はぁ。私は凡人だ。

ま、いいか・・・・。

では、最後に、彼が参加した新作コマーシャルをどうぞ。

http://www.youtube.com/watch?v=-Hj85mQQqhs
宇宙飛行士と騎士を担当したとのことです。

 

ではまた!

 

 

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